二人のクロソウスキ:
 バルデュスとピエール

                                  岡部あおみ


 今年の秋、東京都現代美術館で『ポンピド−・コレクション』展が行われる。期間中毎日曜日(10月19日−11月30日)に講堂で、展覧会にとりあげられた20世紀の巨匠たちに関するア−ト・ドキュメンタリ−(ア−ト・フィルム)が上映される。アレシンスキ−、ベ−コン、バルテュス、ボナ−ル、ブラック、カルダ−、キリコ、デュビュッフェ、デュシャン、フォ−トリエ、サム・フランシス、ジャコメッティ、アルトゥング、カンディンスキ−、クネリス、クライン、マグリット、マッソン、マティス、サウラ、ミロ、ピカソ、ポロック、ス−ラ−ジュ、スタ−ル、ヴィアラなどだ。
 ピカソは三本、カルダ−、マッソン、マティスは二本づつある。一人の作家についての数本の美術映像を見られる場合、まず注目するのは、映像の制作年代だ。もし作家が生存していた時期に制作された古の映像であれば、憧れのア−ティストとスクリ−ン上で出会える可能性が強い。また逆に、物故作家の新しい映像であれば、作品を中心にしたものだろうと推測できる。だが最近は、新しい映像の中に、まるで鏡像のように、過去の記録映像を入れ込む手法も増え、リアル・タイムのドキュメンタリ−の時間軸を錯綜させ、記憶の層を取り込みながら、交響曲のように大河物語を描いてゆく映像もある。
 興味深い映像の中でも、もっとも感銘を受けるのは、作家の創造の秘密に迫ってゆく映像だろう。たんたんと制作の現場を撮影している記録映像が、衝撃的な意味をもたらすこともあるし、インタヴュ−に答える作家の表情や一言が、それまでにもっていた既成概念を瞬間にうちくだく力を発揮することもある。そうした意味で、私が見た映像の中では、マイケル・ブラックウッドの『フランシス・ベ−コン、事実の乱暴さについて』、ジャン=マリ−・ドゥロの『ジャコメッティ、他人の中の一人』、リュック・ドゥ・ユッシュの『マグリットあるいは事物の教訓』、フランソワ・カンポ−の『アンリ・マティス』、ポ−ル・ヘゼルツの『ピカソ訪問』、ハンス・ナム−スとポ−ル・ファルケンバ−グの『ジャクソン・ポロック』は必見と言える。
 ヴィラルデュボの『カルダ−のサ−カス』では、カルダ−自身が自作を巧みに使いながら、子供や家族などを笑わせる楽しい興行師を演じている。『カルダ−のモ−ビル』も同じように、作品が誕生したとき、そこに作家がこめた愛や温もりが、生き生きと伝わってくる忘れられない映像である。マイケル・ブラックウッドはベ−コン以外に、『サム・フランシス』も撮っていて、この二本は拙著『ア−ト・シ−ド/ポンピドゥ・センタ−美術映像ネットワ−ク』でも取り上げている。ブラックウッドほど、数多くの美術映像を手掛けている監督は少ない。中でもベ−コンは傑作だし、サム・フランシスは岸本氏がすでに触れていたように、貴重なドキュメンタリ−である。
 さて、ポンピドゥ−・センタ−が公募をして、1987年からほぼ隔年で開催してきた国際美術映像ビエンナ−レも、来年で第六回目を迎える。これまでのビエンナ−レ傑作集も、東京日仏学院で11月に映写される予定だ。
 去年のビエンナ−レで印象的だったのは、二人のクロソウスキについての映像だった。それぞれ異なる監督が、兄のピエ−ル・クロソウスキ・ド・ロ−ラと、弟のバルタザ−ル・クロソウスキ・ド・ロ−ラ(バルテュス)を撮っている。サドの研究家として知られたピエ−ル・クロソウスキも、今では色鉛筆を使った独特のドロ−イングや彫刻で知られるア−ティストだ。91歳でもまだ現役、ポンピドゥ−・センタ−の映写会の会場に姿を見せた。  
 メルシャン軽井沢美術館で、『バルテュスとジャコメッティ』展(11月9日まで開催)を準備するために、去年の夏、88歳のバルテュス画伯をスイスのロシニエ−ルに訪ねた。バルテュスが長年インタヴュ−嫌いだったことはよく知られている。エイズで亡くなったエルヴェ・ギベ−ルも、若きジャ−ナリスト時代、ヴェネチア映画祭に姿を現したバルテュスのインタヴュ−に四苦八苦した物語を、スリリングな小説にしている。
ローマのバルテュス展にて 春美とイヴァン
バルテュス作「鏡猫?」の前で
 はじめて会う人はみな、伝説の画家バルテュスの眼光の鋭さと今でもダンディな身ごなしに、たじろいでしまうに違いない。でも話しはじめると、親愛に満ちた繊細なやさしさを示してくれる画家でもある。そうした気持ちのやりとりを裏切りたくないという思いにかられ、私もパリから大事にもってきたテ−プレコ−ダ−を持ち出せなかった。4日間、昼食や夕食をともにし、夜がふけるまでうれしそうにジャコメッティの話をしてくれたが、ふと透明人間のように無表情になって話題をそらせてしまうがある。それはきまって彼の絵に関する私の質問に対してだった。「絵は絵が語る」と、バルテュスはストイックな信念をもっているためだ。
 最近はそれでも、美術映像などの被写体になることも増えた。バルテュス家が70年代から邸宅にしているスイスのロシニエ−ルの館は、文化財指定になった18世紀の美しい木造のシャレだ。かつてはホテルだったこともあり、部屋が40室近くもある。その中には鳥が飛び交うメルヘンのような小鳥部屋や、小さなテレビ観賞室もある。そこで、バルテュスをテ−マにした新作のドキュメンタリ−(『バルテュス−鏡の向こう側から』、ダミアン・ペティグリュ監督、フランス、1996年、72分)を一人で見ていた。小机に置かれたおいしいスイスのキャンディ−をつまみながら。
 「少女の裸体を描くのはなぜか?」バルテュスをめぐるこの永遠のテ−マが中心に置かれている。メトロポリタン美術館でバルテュス展をオ−ガナイズしたサビ−ヌ・レワルドによれば、バルテュスが愛する「猫」は、エロスの象徴。バルテュス自身は映像の中で、ナボコフのロリ−タ趣味のはき違えで、自分の絵画が妙な誤解を受けていると憤慨している。
 パリに戻る最後の日だった。映像の観賞に夢中になって汽車の時間を忘れてしまった。一人娘の春美さんが気がつき、大慌てで婚約者のイヴァンが運転する車に乗り込んだ。飛ばしたが2分の差で遅刻。その日ロ−ザンヌ発の汽車はすでになく、春美さんが携帯電話で飛行機を探してくれたがみな満席。ジュネ−ヴ回りの汽車で、やっとパリにたどりついた。みんなに心配をかけたことを恥ずかしく思いながらも、最後まで見られなかった映像が気になった。2か月後、このいわくつきの映像をパリのビエンナ−レでじっくり見ることができた。しかもロシニエ−ルで話題に上ったピエ−ル・クロソウスキの映像と同時に。映像と現実の間を行き来した、感慨深いビエンナ−レになった。

1997.11 おかべあおみ(美術評論家・キュレ−タ−)

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