プロロ−グ
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電気服を着た田中敦子 1956
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ひとつのプロジェクトの実現には、偶然とも必然ともいえるいくつかの出会いがある。1990年から94年までパリと大阪に半分ずつぐらい住んでいた。関西に住む経験を通して、具体はべつの視点から見えはじめていた。田中敦子氏の映像を作りたいと思ったのは、1991年頃大阪でのことである。奈良の明日香にある田中敦子さんのアトリエをはじめて訪ねたのは1985年で、ポンピドゥ−・センタ−のスタッフと一緒だった。そのとき無理を承知で『電気服』の再制作をお願いした。
鶴橋に森村泰昌氏のアトリエを訪ねたとき、彼が昔ゴッホの自画像を制作していた1985-86年頃、そのすぐ近くで、たまたま田中さんがご主人の金山明さんの助けを借りて、ポンピドゥ−・センタ−で開催された『前衛芸術の日本1910-1970』展への出品のために『電気服』の再制作にとり組んでいたことがわかった。森村さん自身、それまで知らなかったその偶然の事実にひどく心を打たれたようだった。
具体を吉原治良と芦屋を中心に理解してゆくのとはべつに、田中敦子と金山明と大阪をキ−ワ−ドに読解してみたらどうだろう。『田中敦子 もうひとつの具体』のサブタイトルの「もうひとつ」という意味は、こうした視点のずらし方を提案するところからはじまっている。だからこの映像は大阪のプロフィ−ルではじまる。プロロ−グの淀川越しに眺める大阪の夜景は、私自身が数年間大阪で眺めていた夜景の思い出に重なっている。
岸本康氏とはじめて会ったのはパリで、ポンピドゥ−・センタ−の1994年の第4回国際美術映像ビエンナ−レの夜だ。センタ−の広場を横切りながら、岸本氏は私に自分で作りたい映像はないのかと、なにげなく質問をした。だれかに相談したいと思っていた『田中敦子 もうひとつの具体』の構想を語ると、岸本氏はその場で協力の約束をしてくれた。
撮影と編集
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田中敦子氏と金山明氏
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日本に戻るとすぐに撮影を開始。これまで一度も映像化されていない田中敦子氏の制作風景の実写を中心に、田中敦子・金山明氏をはじめ具体の関係者などのインタビュ−を行った。撮影の助成金を財団など方々に申請したが、一度も受諾されず、岸本氏が田中敦子の映像を含めるア−ト・ドキュメンタリ−制作全般に関する支援を、東京で活動している映像作家の荒木氏と協同で松下電器産業の社会文化部に申請。それが1997年以降受諾されて、念願のアメリカとフランスにおける撮影が可能となった。
映像の内容は構成次第で大きく変化する。作業は日本語インタビュ−を原稿に起こすだけでも膨大だったが、美術映像の勉強をしていた北川雅代氏がボランティアで引き受けてくれた。最初のヴァ−ジョンでは、田中氏が具体をやめる原因となった病を中心に置いたので、精神科医の長坂五朗氏と田中さんの会話が長く冒頭に来ていて、沈痛な雰囲気が映像を支配していた。田中氏は今でも長坂先生の診断を定期的に受けているが、かつてのような重い症状に悩まされることはなく、心が安まる相談相手のようだ。
田中さんのこれまでの作家生活は、金山氏と知り合い、0会、そして具体のメンバ−としてデビュ−する20代の華々しい時期と、病気になって具体を辞め、明日香に引き籠もって絵画に打ち込む60年代以降の時期に大別される。この二つの時期にまたがる彼女の一貫した創造性の歴史をどう描くかが鍵だ。
国際的に活動を広げた具体の中で、グル−プの育ての親ともいうべき吉原治良氏と、早熟な才能を開化させた田中敦子氏との競合が、同じく才能豊かな金山明氏の存在とからまって、複雑な感情的対立を生み出し、それがおそらく病気の一因になったと思える。田中敦子氏が女性作家であることから発生するマイノリティ−の物語とはむしろ逆転した地点からはじまっているが、結局病気へと自らを追い込んでしまった原因の中には、日本の女性という社会的な立場も見え隠れしている。
構成は海外の取材が入ったために、第二のヴァ−ジョンでは金山さんのパ−トを絞らざるを得なくなり、第三のヴァ−ジョンになると、登場人物自体の数をかなり制限せざるを得なくなった。最終的に田中さんの発言にアクセントを置くことにしたのは良かったと思う。解説は冒頭に具体をまったく知らない人のために簡単な説明をつけてあるのみで、それ以外は何もなく、できるかぎり物事のありかたをピュア−なかたちで残すことに努めた。
コンセプト
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電気服の前の田中敦子 1956
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この映像の目的は、田中敦子氏のすばらしい芸術を理解してもらうことと同時に、既存の具体の国際的な評価の基準に対して問題提起をして、新たな読解のパラダイムを提出するところにある。アメリカのアラン・カプロ−は1966年に、『アッセンブリッジ、エンヴァイラメント アンド ハプニングズ』という本を書き、具体のメンバ−のアクションやインタ−メディアの先駆的な役割を評価した。また機関紙『具体』を目にしたフランスの評論家ミシェル・タピエは、具体に大きな関心を抱くことになり、1957年には、今井俊満とジョルジェ・マチュ−を伴って来日、日本に表現抽象主義のアンフォルメル旋風を巻き起こした。タピエを通して具体のメンバ−はアンフォルメルに参加し、多くの作家はタブロ−制作へと戻っていった。
これが一般に知られている具体の理解だが、映像の中で田中氏が語っているように、彼女の場合は初期の具体のアクションなどはあくまで絵の発展形態として考案されており、アンフォルメルを介した絵画への回帰という図式化は当てはまらない。田中氏は舞台で着ている服を次々に脱いで、最後はタイツ姿となるパフォ−マンスを行っているが、生身の身体性はそれを何重にもおおう服の支持体でしかなく、重要なのは変身をもたらす、タブロ−のように変化する服だった。カプロ−は具体のアクションとハプニングだけではなく、環境作品も評価していたが、具体をハプニングのパイオニアとみなした結果、評価が一般に身体的なものへと偏向していった
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自宅アトリエにて制作中の田中氏
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ことは否めない。
1994年に開かれたポンピドゥ・センタ−の『境界を超えて』展でも、村上三郎氏の紙やぶりが再現された。このアクションは屏風を神風のように体当たりで破るといった、爽快で破天荒な日本的な面があり、かつ前衛行為の象徴としてだれにもわかりやすい。白髪氏のフット・ペインティングの絵画も、日本人が畳の上を素足で歩くといった習慣や、舞踏のように描くといった身体性とのかかわりにおいて伝統的解釈を可能にする。しかも日本人という土着的以外の何者でもない肉体の表出は、アイデンティティの歴然とした呈示になる。
具体における日本的な要素は、具体美術宣言に明らかなように、物質をありのままの形で呈示するという方向にも現れている。こうした物質への感性は、元永定正氏の水を使った一連の自然主義的な美しいインスタレ−ションや、白髪氏の泥の格闘や丸太と斧、村上氏の紙破りなどの自然の物質の斬新な出現に結晶している。しかし田中・金山氏は60年代のもの派へと通ずるようないわゆる自然物は布以外ほとんど使っていない。日本的といえば、吉原治良氏が60年代以降亡くなるまで、禅画のような円の連作を描いたことも想起してもいい。
こうした傾向に対して、田中・金山氏の作品には対外的にも理解されやすい具体の自然物や身体性を通しての日本的なアイデンティティの表出はほとんど見られない。『田中敦子 もうひとつの具体』のサブタイトルは、とくに海外で評価されている日本的ともいえる具体の要素とは異質な「もうひとつ」の開かれた具体の面を強調するためだ。そしてなによりも、グル−プを越えた個としての作家の軌跡に新たな光が当てられるべきだろう。パリでフランスの友人たちを招いて、『田中敦子 もうひとつの具体』の試写会をした。みんなとても熱心に見てくれた。映像を見た後に何かほのぼのとした喜びが残ると友人が言った。自分で述べるのもおかしいが、この映像の見所は、ユニヴァ−サルな造形言語をめざした彼女のじつに独創的な世界と、その驚異的な創造の軌跡をたどれる醍醐味にある。
写真と記録映像を通して、田中敦子さんの生き生きとした活動とラディカルですばらしい作品と出会えることになったのは、資料提供、撮影協力してくださった芦屋市立美術博物館をはじめとする多くの方々の好意と協力のおかげである。長い撮影につきあってくださった田中さん、金山さん、インタビュ−に快く応じて下さった方々に、撮影や忍耐のいる編集作業を含めて、映像の完成のために最後まで情熱をもち続けてくれた岸本康氏、湯山ななえ氏、スタッフ全員に心から感謝を捧げる。
(1998.10 おかべあおみ)
田中敦子 もうひとつの具体
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