5月も後半になり、ようやく体調を取り戻していた。水疱瘡によって、およそ1ヶ月間、世間から取り残された気分でいたと思う。カムバックの初仕事は、大阪にあるIMI(インターメディウム研究所)の授業だった。久しぶりの世間に出た訳だが、南港に出来た関西最大と言われる新しいアウトレットに立ち寄った時に、何となくぎこちない足取りの自分に気がついた。それほどまでに、水疱瘡は恐ろしかった。
IMIの方は盛況で、最初の授業では、講座としてのイントロダクションをやる事になっていて、私は「アート・ドキュメンタリー」という講座を今年は1人で担当しているので、90分の時間で、「アート・ドキュメンタリー」とは何ぞやという話しをしなければならない。これは結構大変だ。まったく、見たことの無い人までを対象に、解説的な話しをする。断片的に興味のありそうな私の撮った映像を見せながらマシンガンの様な早口で語った結果、今年は30人近くの専攻の希望者があって、大賑わいになってしまった。もう少し、実際は地味な仕事である事を話しておくべきだったかも知れない。まあ、アート・ドキュメンタリーに興味を持つ人が増えるのは嬉しいが・・・。
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スタジオで収録を監督するウディチコ氏
音声と映像の同時収録が行われた。
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6月に入り広島で制作に入っていたクシュシトフ・ウディチコの現場を取材した。実は1月に彼が来た時のプロジェクションのテストにも立ち会っていた。その時に私が撮ったテスト投影のビデオが彼の役に立ったらしく、快く撮影をさせてくれた。その日は、主に被爆者の方の証言をスタジオで収録していたところを取材した。
6月は1年がかりの編集も仕上げた。昨年の森村泰昌の回顧展が巡回した中の関連イベントで、「河内音頭で美術をKILL」と題された多田正美との共演で、河内音頭の節に乗せて、森村流の美術史や美術論をぶちまけるというライブがあった。応募多数のために2部の構成の入れ替えで、それぞれ200人くらいの来場があったと思う。そのライブをやっとのことで1本にまとめた。やっとの事でというのは、このライブを4台のカメラで撮っていたので、編集に思いの外時間がかかったのと、歌詞が重要なので字幕を入れたりしたために、結局1年後の発表になった。ほとんどが河内音頭の節で、1時間以上あるので、ちょっと頭にメロディーがこびり付いてしまって苦労したが、是非、美術の授業などでもお使いいただければと私は考えている。
編集が、やっとの思いで終わりかけた頃に、予てから取材の申し込みをしていたパリの美術館の幾つかから良い返事をいただき、出発する事にした。自主企画で進めている美術館の空間とその歴史を検証するための長編?の取材だ。主な取材先は、ポンピドゥーセンター、パリ市美術館、そしてジュ・ド・ポムである。撮影は日本から同行した湯山と、パリ在住の衣川、井利の4人のクルーで行った。
この時期ジュ・ド・ポムでは、具体の回顧展が開かれていた。館長のアバディー氏の肝いりで開かれた展覧会には田中敦子さんの電気服のさらなる再制作作品が展示されていた。85年に作成されたものは、ポンピドゥーセンターの依頼で、田中さん本人が再制作されたものだったが、今回はその作品の都合が付かなかったために、ジュ・ド・ポムが再制作をフランスで行ったらしい。キラキラと点滅するものではなかったが、ちょっとシックな感じの電気服が静かに展示されていた。
パリに着いて最初に訪れたのは、ポンピドゥーセンターのニューメディアというセクションだ。ここは、メディア上の作品を主に扱っていると同時に、最近は作家を招いて作品制作のサポートをしている。既にダグラス・ゴードンやナウマン、パイクらの作家がここから新作を発表している。詳しいインタビューの内容については、将来制作を予定している作品でご覧頂きたいが、今回同行した湯山のレポートをとりあえずは、参照頂きたい。ニューメディアの百科事典を目指すと言われていたウェブサイトは一見の価値がある。(http://www.newmedia-arts.org/)
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エントランスから延びる美しい階段
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ジュ・ド・ポムの撮影は丸1日を予定していた。開館前の撮影もあったので、朝、守衛室で登録をしていたら、外からどこかで見た出で立ちの人が入って来た。ウディチコ氏だった。彼は東欧の作家を紹介する展覧会の企画に加わっているとかで打ち合わせに来たらしい。ばったりと出会い、なぜか私たちはフランス式の挨拶をした。(笑)
現在のジュ・ド・ポムの洗練された内装の美しさは作品と響き合い訪問者を魅了する。計算され尽くした空間は決して広くないスペースを最大限に有効利用しているのではないだろうか。外観は古い建物をそのまま利用している様に見えるが、改装工事の写真を見ると新たな空間を作り出すために、柱などのディテールを残してそのほとんどの部分を新しくし、新築に近い改装を施している事がわかる。とにかく美しいジュ・ド・ポムの空間や丁度開催されていた具体展の作品群、表のチュルリー公園などを撮影して収録は無事終わった。
そして、昨年も撮影したパリ市美術館へ再度訪問した。前回、撮影出来なかったポンピドゥーのコレクション展も含め、今回は企画展を含めて内部全体を詳細に撮影する事ができた。また、私の企画趣旨を理解して、建設当時の貴重な写真や1937年のパリ万博のカタログなどを探してくれたり、撮影に大変協力して頂いた。さらに古い写真に関しては外部の写真アーカイブや図書館を回って調査したが、なかなかまとまとった形では保管されていない実態があった。報道写真も戦時中の美術館を撮ったもの等は、なかなか発見出来ない。たまたま外観が写っている写真はあるのかも知れないが。
丁度立ち寄ったスタッドラー画廊では、この話をすると親切にもルーブルの関係者などへ電話をして下さり、捜索方法などについてアドバイスを頂いた。
今回の取材では多くの人と出会い、考えていた以上の協力を戴く事ができた。自主企画のために期限や限界の無い制作なのだが、これだけ協力をもらってしまうと、多少プレッシャーを感じる。そのためにも良いものにしなければならない。
さて、7月に入るといよいよ、ウディチコ氏のプロジェクトが最終段階に入って行った。詳しい内容はドキュメンタリーをご覧頂いてのお楽しみとしたいが、とにかく8月7日のパブリックプロジェクションに向けて、彼もスタッフも倒れる寸前だったのではないだろうか。私もウディチコ氏に負けぬようにやり通した。特に、プロジェクション当日の夜明けまで最終の調整を繰り返した時の映像が美しい。
8月の後半は「西雅秋 ダブルキャスティング」の英語字幕版、フランス語字幕版の制作に入ったり、何人かの作家のこれからの展覧会に向けての映像などをまとめたりする仕事が重なり、またしても夏休みはなくなってしまった。
また、恒例になった神戸アートビレッジセンターのアートアニュアルの作家紹介のビデオの制作も9月にかけて行った。今年のアニュアルの中では、「束芋」と名乗る新鋭若手が登場している。彼女の特徴はとにかく繊細でいて大胆、器用な上に粘りもあると言ったところか。新しい形のエンタテイメント型芸術を模索するに違いない。そう思っていたら、今年のキリンのアワードの大賞のニュースが舞い込んできた。
9月末になってモントリオールの国際美術映画祭のウエブサイトが完全な形ではないがリニューアルした。ディレクターのロネ・レゾンの息がかかったもののためか、デザインが洗練されている。
KYOTO ART TODAYを終了して
7年と6ヶ月間で500名以上の作家の展覧会や活動を記録して来た。
しかしながら、採算に合わないこの活動を今後も続けてゆく事が難しくなり、1999年6月の収録をもって終了した。思い返すと第1号の発刊当時は、随分貧粗な機材で収録を始めた。もともと作家とギャラリーの資料になればという事が出発点だったので、パッケージも市販のビデオテープにシルクスクリーンで、KYOTO ART TODAYのタイトルシールを刷ったりした手作りビデオだった。
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市販のカセットにコピーしていた
初期のKYOTO ART TODAYのパッケージ
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KYOTO ART TODAYが現代美術の記録ビデオマガジンとして、7年間続けて来られたのは、作家や彼らを取り巻くギャラリーや関係者との、至ってアナログ的なコミニュケーションである。7年前とは、コンピューターやインターネットなどのデジタル環境は随分変わったが、変りの無いのは、会って話をするというコミニュケーションだ。これは時代がどんなに変化しても変わりの無い事だと思う。そういう意味で、お互いの信頼関係を築いて下さったギャラリーの人や作家の面々には大変感謝をしている。
80年代の末、当時ニューヨークで発刊されていたART TODAYというビデオは、頻繁に訪れることのできないニューヨークのアートシーンを美しい映像で記録し、数多くの美術館やギャラリーの展覧会を見る事が出来た。そのビデオこそKYOTO ART TODAYの源であったが、残念ながらその本家は3年程で廃刊になった。
私がKYOTO ART TODAYを始めた頃に東京でも同じ様な動きをしていたグループがあり、ART TOKYOと題したビデオが発刊されていた。4号くらいは続いて、若き日の村上隆のインタビューなども収録されている。しかし、主になって動いたいた人が転勤になって以来休刊している。これらのビデオの共通点は、いわゆるアーカイブ映像である。資料性を高めるために演出などは殆ど無い。
1995年にヨーロッパでジャック・ジャエガーの企画による国際アート・ビデオ・マガジン展というのが、パリとケルンで開かれ、KYOTO ART TODAYも参加した。世界から15本程度のビデオが集まっていた。
ビデオのジャンルは美術、音楽、ダンスなど様々だったが、内容的にはどれも記録映像であった。当時はまだ長年続いたものは無く、どれも1〜2年程度でKYOTO ART TODAYは既に3年目ではあったが、長寿組だった。他のビデオはどうなったか、また調べてみたい。
アーカイブ映像は、資料としてデータベースになり得るものだし、これらは取り組む分母数が増えて行かないとその価値も半減してしまう。動画アーカイブが瞬時に取り出せる日も、技術的にはそう遠く無い日にやってくる事は間違いないので、その日のためにやらねばならない項目の一つだ。ハードはソフトの充実がなければ伸びられない。従って、地道なアーカイブの制作は美術館やアートセンターの必須の課題であり、アーカイブを作ることが長い目でみると大きな普及に繋がる事は間違いない。図録よりも効果があると言っても良いのではないだろうか。極論かも知れないが、未来の図録はDVDの様なメディア、或いはネットで配付や販売がされるのではないだろうか。当然、動画は最も重要な要素になる。電話帳の様な素敵な図録を引っ張り出して、図版やテキストを探す手間は、懐かしい記憶と化すのかも知れない。
アーカイブの構築は、資本、人材、継続を考えると今の美術館などのシステムに組み入れるのは難しいのかも知れないが、やはり地域の中心となる美術館やアートセンターなどがやるべき仕事ではなかろうか。ただし、その恩恵をこうむるのは、ずっと後の人々ではあるが。
KYOTO ART TODAYは、2年目に財団法人ビデオ映像文化振興財団から制作に関する助成を頂いた。助成は1年だけのものであったが、この活動を大いに理解して頂き、映像のクオリティーを上げるきっかけを頂いた。その後、日本芸術文化振興基金からもKYOTO ART TODAYの上映会に対する助成を頂いた。これによって、定期的に上映会を開く事が出来た。上映会に来て下さった人の中には、普段ギャラリーへは足を運ばない人や、旅行中の外国人もおられ、様々なタイプの作品を短時間に見られる良い機会になったと喜ばれた。内容を楽しんで貰う事と同時に、このようなアーカイブの必要性などを感じて頂けたのではないだろうか。
さて、今後の事・・・
これからは、映像で芸術を語れるものを作って行きたいと思っている。単なる記録に留まらず、芸術を扱った映像作品を通して人の心を動かしたい。そこまでやらないと結局は映像としても残る可能性は低い。アート・ドキュメンタリーは既に美術家や研究者だけのものではない。万人のものなのだ。社会派のドキュメンタリーであれ、喜劇映画であっても、喜怒哀楽を誘い出すものでないと、それらはいつかは消えてなくなる。
自主企画をして資金をやりくりしたり、良い条件で撮影ができるように身体を鍛えたり、一言で「作品化」と言えど、実現するのは容易くない。しかし、それだけにやり甲斐を持ってできる様にも感じている。 既に後戻りは出来ないし、常に新しいものを、より高いクオリティーで、見る側の人と互いに何かを発見できるものを作って行きたいと思うこの頃だ。
最後になったが、終了に際して多くの励ましのお便りや御支援も頂戴した。「返す返すも残念。」などという、私自身思っても無い文面を拝見し、とても驚いた。そのように考えていて下さる人に、これは丁度良い転機だったと将来思って頂ける様に、走りたい。
(1999.10 きしもとやすし/アートドキュメンター)
クシュシトフ・ウディチコ
森村泰昌 河内音頭で美術をKILL
田中敦子 もうひとつの具体
西雅秋 ダブルキャスティング
初芋:束芋1999-2000
KYOTO ART TODAY
制作記、コラム一覧
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