クシュシトフ・ウディチコ
 プロジェクション・イン・ヒロシマ制作記

                                 岸本 康


パブリック・プロジェクション(photo: 石河真理)
  「今日は何で広島まで来たんだい ? 何か用事があったの ?」99年1月、最初にウディチコと会ったプロジェクションのテストに立ち会った後に、彼は私に尋ねた。
 「あなたのために来た。」 「僕の ?」 「そう、あなたのドキュメンタリーを作るために来た。」彼はちょっと考えて、苦笑しながら「……僕の作品がドキュメントなのに、さらなるドキュメンタリーは必要ないよ。」確かこんな話しをした。
 
 私がウディチコの作品を初めて知ったのは、彼のバルセロナのプロジェクトの後、現地に住んでいた友人から「ちょっと変わった作家がいる。日本のどこかで紹介できないだろうか。」という話と共に写真を見せてもらった時だった。確か1992年だったと思う。日本ではほとんど知られていなかった。その後私は、ソーホーのニューミュージアムのグループショーで初めて彼の作品を見た。初期のエイリアン・スタッフだったが、展示からはそう大きな印象を受けなかった。勿論、その作品の中に映し出されている人物の発言やコンセプトなどを事細かく私が理解していなかったためだ。美術館に展示されたキャプションと立ったままで見るモニターの小さな音と、私の貧しい英語力では、彼の「作品」の全体像を見るには不十分だった。でも、いつかはあのプロジェクションに立ち会ってみたいし、作家とも会って見たいと思っていた。

 99年1月の来日から、5月末の具体的に制作が始まるまで、しばらくの空白があった。6月に入り、証言者の方の発言を録画する現場に立ち会わせてもらえる事になった。ウディチコはその責任を一身に背負った様子で大変神経質になっていたが、まだまだそれは始まりだった。
 スタジオの収録では、取材のカメラは2台までで、テレビの大きなカメラはだめとか、細かなところまで指示があって、彼はとにかく参加して話をしてくださる人を第一に考え、事を進めていた。「私は軍隊の経験があるから大丈夫」と昼食も取らずに、唯々精神力だけで制作に没頭する様には気迫が漂っていた。
 証言者の方とは丁寧で温厚そうに話をするが、スタッフに対しては厳しく鋭い目を向ける。ウディチコと少し仕事をすると誰でも、この人は二重人格ではないだろうかと思うだろう。それほどに制作に傾ける集中力が高い。最初は暴君だと思ったとか、わがままな作家だと思っていたとか、周囲で働くスタッフもそんな感想を漏らす。今回の制作スタッフは、仕事とは言え、切れる寸前まで振り回され、よくやったと思うが、それが彼の制作スタイルだった。
 ウディチコが以前パリで企画したプロジェクトを担当していたジェローム・ドゥロルマスは現在、関西日仏学館の館長だが、昨年、私がウディチコのドキュメンタリーを作ると言ったら、「いいか、彼の目標は毎日毎日高くなって行くから・・・」と、かつてのパリの出来事を思い出してアドバイスをくれた。実際、7月からのプロジェクトはジェロームの言葉通り、日々エスカレートして行った。
 
 7月の来日では、展覧会の準備、カタログ、プロジェクションの素材づくり、そのテストと、ウディチコの仕事は山積みだった。詳しい事の移り変りはドキュメンタリーでご覧頂きたいが、本当に彼は何事も諦めない。あいまいな事を嫌い、なあなあで物事を進めない。
 日本で「雷おやじ」という今や死語になりつつある言葉があるが、ウディチコは雷おやじだったかも知れない。最近の大人は自分の子供さえ叱れない、まして他人の子供を叱らない。勿論、大人を叱る事など忘れかけてた事なのだが、ウディチコは叱った。叱られた人を代表して、ドキュメンタリーの中では技術スタッフの伊奈さんにエピソードを語ってもらったが、ほとんど全てスタッフは、叱りつけられたのではないだろうか。
 私自身も例外ではなかった。みんなが編集が進まずイライラしている時、少しこの重い雰囲気を変えたいと思う気持ちが私の表情に出たのか、「笑うな」と怒鳴られた。そう言われれば、笑う場面では無かったかも知れない。
 今思っても「雷おやじ」というのが今回のキーワードだった。私の子供の頃のマンガやドラマには必ず怒り役のおやじが出てきた。近所の子を叱りつけるおやじ。今や叱りつけると刺されそうな現実が頭をかすめるためか、こういう人物にはほとんど出会わないし、私自身もそういう風潮に流されている事は確かだ。見なかった事にしておくとか、無かったことにしておくということをウディチコは最も嫌い、それを大きな問題と考えている。これらは、一度は母国を去らねばならなかったという彼の人生に関係している事は否めない。私には決して真似の出来ない気迫と魂によって、それらが彼の作品に反映されているのだと感じた。
 私はウディチコのことを雷おやじと思い、雷おやじと拮抗しなければ、良いものは作れないという覚悟で私の制作に望んだ。今から思うと、まんまと彼のスタイルにはめられたのかも知れない。そして、予定していなかった日も、私は広島へ通い撮影を続けた。雨の中のシーンを、ずぶ濡れになってでも撮ってやろうと思わせたのは、この雷おやじのせいである。

 8月8日のプロジェクションが終わって、翌日、インタビューを申し込んでいたので、再びドームの前へ行って話をしてもらったが、全てが終わった直後では考えがまとまらずあまり良いインタビューにならなかったので、秋の来日に持ち越す事にした。
 広島での日程を終えて、ウディチコは奥さんと一緒に京都に観光に来た。私は案内役では無かったが、彼が京都を去る最後の日に昼食を共にした。もう、彼は雷おやじではなかった。今回、どんな画が撮れたとか、いろいろ話をしているうちに、私と彼はある事柄で意気投合した。内容的にはつまらない事だったが、それが如何につまらない事かという所で、御互いの共通の視点が見えてきた。私は、やっと彼との信頼関係が出来た様な気がして嬉しく思った。おそらく彼も同様で、安心したに違いない。

 ドキュメンタリーの中で、自分自身がどのように描かれるかは、誰にとっても心配ごとに違いない。一番最初に彼が、「必要ないよ。」と言ったのも多少、そういう感情が含まれていたとも思えるし、ウディチコを描いたまとまったドキュメンタリー作品はこれまで無かった。もしかすると、撮らせない作家なのかも知れないとも思っていた。
 以前に別の仕事で私がパリで撮影している時、ウディチコにばったり出会ったりして、なんとなく運命的なものを感じたり、そういう意味では「縁」があったのかも知れないが、最終的には彼は私を認めて、好きにやって良いものを作って欲しいと言って盛夏の日本を去った。

ディス・アーマーとウディチコ
 99年の11月に新しいプロジェクト「ディス・アーマー」の制作のために再び来日したウディチコにインタビューに出かけた。丁度夏のプロジェクトを振り返るに良い時期だったのか、長い時間いろいろな事について話が聞けた。このときの発言を作品の中で使っている。
 作品では紹介できなかったが、ウディチコは今回の発表以前にも広島の芸術家たちから8月6日に何かできないかという打診をもらった事があり、いつかは実現したいと考えていたらしい。広島賞という名誉な賞が与えられ、そのために経済的援助がありプロジェクトが実現したのは確かだが、その根底に流れるものがあってこそ、今回のプロジェクトが高いクオリティーで実現できた訳だ。これまでの彼の数多くのプロジェクトに対して、貧乏人や人の不幸をだしにして金もうけをするアーティストという批判があるという事を聞いたが、それはあまりに表面的な捕え方で現実を見ていない。「雷おやじ」はいつの時代も誤解されてしまうのであろうか。

 編集は12月頃から始めた。
 今回の作品の中では、勿論「ヒロシマ」というテーマがウディチコ以外にも大きく関係してくる。私は京都に住んでいて、今や広島は新幹線で1時間半の距離なのに、知らなかった事の多さを制作を通して改めて感じた。海外の映画祭で、外国人が日本を題材にして撮った作品を見ることがあるが、やはり違和感のある作品が多い。分かったつもりで描かれたものが、当事者にとっては陳腐な表現に見えてしまう事の方が多いのだ。なるべくそれは避けたかった。
 既にタイムラインがほぼ完成していたので、オフラインで繋ぎ出した。何回もバージョンを上げて微調整を繰り返しては試写を行い、スタッフの感想も参考にしながら詰めて行った。2月の中旬にはおおむね完成に近い形の白完パケ(テロップなどの無いもの)の音声未編集ものが出来ていたと思う。
 フランス語版と、英語版の制作ではプロジェクションの語りの部分は字幕にしないで、音声を吹き替えで行うことにした。全編に渡り多くの人の語りが入るために、字幕を続けると視聴で疲れる事と、ビジュアル的にプロジェクションの映像に字幕はよくないからだ。

録音中のナタリー・ヴィオ
 フランス語の吹き替えは、ナタリー・ヴィオ。彼女はジェローム・ドゥロルマスの奥さんだが、フリーのキュレーターで、主にニューメディアの作家の展覧会を企画したりしている。パリのウディチコのプロジェクトにも立ち会い、今回のナレーションを喜んで引き受けてくれた。彼女は素人ではなく、ラジオ局で働いていたプロだ。
 丁度フランス語版が出来た頃に、広島での「ディス・アーマー」のプロジェクトの仕上げのためにウディチコが来日した。半日だけそのプロジェクトを見に出かけ、出来立てのフランス語版テープをプレゼントした。70分というのに彼は目を丸くして驚いた。「君はクレージーだよ。」と。
 「あなたに言われたく無い。」とは言えなかったが、彼はとても喜んでくれた。また、ナタリーが吹き替えで参加したことも喜んだ。
 その日の彼の制作は続いていたが、私はあまり時間がなかったので、帰る事を告げて市電を待っていたら、追いかけて来てプレゼントをくれた。彼の愛用していたらしい、ちょっと薄汚れた首からぶら下げるボールペンだった。彼はとてもそのペンがお気に入りらしい。私がキョトンとしていると、こんなふうに腰に付けても良いし、首から下げても良いしと、示してくれた。私は、ちょっとくらい監督らしく見えるかなと、そのペンを頂き、市電に乗った。

 その後、日本語版、英語版、をほぼ同時に仕上げた。ウディチコの話しの部分の日本語字幕に結構手間取った。数多くの言葉を使ってゆっくりと話す口調に対して、字幕の間があいてしまう。字幕はある程度続けて出さないと意味が伝わりにくいし、日本語の特徴から、文章を完結しないと全体の意味がつかみにくい。かといって、早く字幕が出終わってしまうのも違和感がある。なんとも難しかった。
 英語版を早速、ウディチコへも送った。先に渡したフランス語版の感想も聞いていなかったけれど、どうせ作家は自分の映像を見せつけられて気に入る訳はないと思っているので、連絡が来なくても、それは仕方のないことと思っていた。

 5月も終わろうとしていた頃、ニューヨークのギャラリーから電子メールが届いた。ウディチコの作品を扱っているギャラリー・ルロングのマネージャーからだった。ウディチコにテープを借りてドキュメンタリーを見たが、さらにウディチコを理解できた様に思うと書かれてあった。
 私には本人から感想を聞くよりも、より嬉しいメッセージだったし、ウディチコらしい意志伝達だなと思った。


―余談―
 今年はポンピドゥーセンターのビエンナーレが11月に予定されていた。4月がエントリーという連絡をもらっていたので、それに合わせてフランス語版を先行して作っていた。しかし、3月にディレクターのジゼル・ブルトー・スキラからセンターを去るという手紙をもらった。何とも不可解な出来事で、まさかとは思ったが、ピエンナーレは延期の知らせが3月の終わりに届いた。リニューアル・オープンしたポンピドゥー・センターでは、外見だけでなく内部も大きく改革しているらしい。それが良いものかどうかは私には判断できないが、一旦案内していたものを急に覆してしまう事には失望した。
 ポンピドゥーセンターの国際美術映像ビエンナーレはこれまでに6回、10年以上続いて来た映画祭で存在意義は大きい。世界から美術に関するフィルム、ビデオを集めるという点においてはモントリオールの国際美術映画祭と肩を並べる。センター以外への巡回や他の美術館への波及効果はポンピドゥーの方が高かったのではないだろうか。一昨年、東京都現代美術館のポンピドゥー展の関連プログラムで、ビエンナーレの映像が上映され、連日盛況だったことは記憶に新しい。
 そして、何よりも我々制作者にとっては大変大きな存在で、私にとっても94年の参加がなければ、今までこういう活動を続けられているかは分からない。
 ジゼル・ブルトー・スキラがこれからどういう活動をするのか少し心配していたが、6月に入ってFAXが届いた。「ZEUXIS」という美術映像の雑誌をフランスで発行するという。フランス語英語のバイリンガルで季刊で出版される。
 10月に発刊される記念すべき創刊号にウディチコのドキュメンタリーの制作記を掲載する事になった。この雑誌がきっかけで、多くの人に今回の映像が見て戴ければと思う。

(2000.7 きしもとやすし/アート・ドキュメンター)

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