Another GUTAI : Atsuko Tanaka 田中敦子 もうひとつの具体
Intorduction
具体美術協会は、アメリカのアラン・カプローによって、ハプニングの先駆者と評価され、またフランスの評論家ミシェル・タピエとの出会いを通して、アンフォルメルの作家たちと親交を深めて国際的な活動を行った。
初期の具体のメンバーとして出発した田中敦子(1932年~2005年、大阪生)は、奈良明日香のアトリエで思索に満ちた絵画制作を続けていた。 20世紀が生んだ名作『電気服』の作家。
本作ではその自由で大胆な創作活動と苦難の日々を追う。
平面作品の制作風景を初めて公開するほか、キュレーターやギャラリスト、アーティストのインタビュー、また50年代から60年代に撮影された当時の活動の記録写真や8ミリフィルムなどを交えて、作家・田中敦子に迫る。
The Japanese artistic group known as Gutai had a international impact from the late 1950s to the early 1970s. According to American artist Allan Kaprow, Gutai was the precursor of the Happening. Through French art critic Michel Tapie, the movement had close relations with the Informel artists.
Atsuko Tanaka (born in Osaka in 1932) was one of the founding members of Gutai and continues to work today on her contemplative paintings at her atelier in Nara. She is the creator of the “Electric Dress”, one of the masterpieces of this century.
This profile bears witness to her bold and unrestrained creativity, along with the hardship she faces in everyday life.
<出演> 田中敦子、金山明、森村泰昌、白髪一雄、神野公男、長坂五朗、 Paul Schimmel、Allan Kaprow、Germain Viatte、 Rodolphe Stadler
<監督> 岡部あおみ
<撮影・編集> 岸本康
Appearances
Atsuko Tanaka, Akira Kanayama, Yasumasa Morimura, Kazuo Shiraga, Kimio Jinno, Goro Nagasaka,
Paul Schimmel, Allan Kaprow, Germain Viatte, Rodolphe Stadler
Director: Aomi Okabe
Images and Edit: Yasushi Kishimoto
45min. COLOR Hifi-STEREO
電気服を着た田中敦子(1956年)
Tanaka Atsuko in Electric Dress, 1956
大作の制作風景
奈良明日香の自宅アトリエにて
Atsuko Tanaka
her atelier at Asuka village, Nara
登場人物 character
「彼らは具体のなかで最も革新的な人物でした。」
“They surely were the most innovative protagonistes in Gutai.”
Germain Viatte ジェルマン・ヴィアット
ポンピドウーセンター国立近代美術館元館長
ex-Director of the National Museum of Modern Art, Paris
「彼女が求めてるのは全体性。」
“What she pursues is totality.”
神野公男 Kimio Jinno
ギャラリーハム主宰
Gallery HAM
「田中さんの作品は、この展覧会にとって不可欠なものでした。」
“Ms. Tanaka’s work was an essential element of the exhibition.”
Paul Schimmel ポール・シーメル
ロサンジェルス現代美術館(MOCA)チーフ・キュレイター
Chief Curator of MOCA (The Museum of Contemporary Art, Los Angeles)
金山「お母さんが観に来てて、気失いかけて...」
田中「ああ、あの子はってびっくりしたんです。」
“Her mother was there and nearly fainted.”
“She was really shocked.”
田中敦子 Atsuko Tanaka
金山 明 Akira Kanayama
Artists
「素晴らしい写真だった。その時すごく興味深いと思ったんだよ。」
“Marvelous photographs !!
Then I thought ‘Oh, that’s very interesting.’ “
Allan Kaprow アラン・カプロー
Artist
「やっぱりいきつくのは、自分にとっては電気服なんですよ。」
“Atsuko Tanaka’s work, for me, is symbolized by ‘Electric Dress’.”
森村泰昌 Yasumasa Morimura
Artist
「田中は私がショックを受けた作家の一人です。」
“Tanaka is one of the artists who gave me an immediate shock.”
Rodolphe Stadler ロドルフ・スタッドラー
スタッドラー画廊主宰
Galerie Stadeler
「あれはかなり重いですよ。鎧より重いんちゃうかな。」
“It was very heavy, heavier than armor, I think.”
白髪一雄 Kazuo Shiraga
Artist
Production Diary
監督制作記 岡部あおみ
プロロ-グ
ひとつのプロジェクトの実現には、偶然とも必然ともいえるいくつかの出会いがある。1990年から94年までパリと大阪に半分ずつぐらい住んでいた。関西に住む経験を通して、具体はべつの視点から見えはじめていた。田中敦子氏の映像を作りたいと思ったのは、1991年頃大阪でのことである。奈良の明日香にある田中敦子さんのアトリエをはじめて訪ねたのは1985年で、ポンピドゥ-・センタ-のスタッフと一緒だった。そのとき無理を承知で『電気服』の再制作をお願いした。
鶴橋に森村泰昌氏のアトリエを訪ねたとき、彼が昔ゴッホの自画像を制作していた1985-86年頃、そのすぐ近くで、たまたま田中さんがご主人の金山明さんの助けを借りて、ポンピドゥ-・センタ-で開催された『前衛芸術の日本1910-1970』展への出品のために『電気服』の再制作にとり組んでいたことがわかった。森村さん自身、それまで知らなかったその偶然の事実にひどく心を打たれたようだった。
具体を吉原治良と芦屋を中心に理解してゆくのとはべつに、田中敦子と金山明と大阪をキ-ワ-ドに読解してみたらどうだろう。『田中敦子 もうひとつの具体』のサブタイトルの「もうひとつ」という意味は、こうした視点のずらし方を提案するところからはじまっている。だからこの映像は大阪のプロフィ-ルではじまる。プロロ-グの淀川越しに眺める大阪の夜景は、私自身が数年間大阪で眺めていた夜景の思い出に重なっている。
岸本康氏とはじめて会ったのはパリで、ポンピドゥ-・センタ-の1994年の第4回国際美術映像ビエンナ-レの夜だ。センタ-の広場を横切りながら、岸本氏は私に自分で作りたい映像はないのかと、なにげなく質問をした。だれかに相談したいと思っていた『田中敦子 もうひとつの具体』の構想を語ると、岸本氏はその場で協力の約束をしてくれた。
撮影と編集
日本に戻るとすぐに撮影を開始。これまで一度も映像化されていない田中敦子氏の制作風景の実写を中心に、田中敦子・金山明氏をはじめ具体の関係者などのインタビュ-を行った。撮影の助成金を財団など方々に申請したが、一度も受諾されず、岸本氏が田中敦子の映像を含めるア-ト・ドキュメンタリ-制作全般に関する支援を、東京で活動している映像作家の荒木氏と協同で松下電器産業の社会文化部に申請。それが1997年以降受諾されて、念願のアメリカとフランスにおける撮影が可能となった。
映像の内容は構成次第で大きく変化する。作業は日本語インタビュ-を原稿に起こすだけでも膨大だったが、美術映像の勉強をしていた北川雅代氏がボランティアで引き受けてくれた。最初のヴァ-ジョンでは、田中氏が具体をやめる原因となった病を中心に置いたので、精神科医の長坂五朗氏と田中さんの会話が長く冒頭に来ていて、沈痛な雰囲気が映像を支配していた。田中氏は今でも長坂先生の診断を定期的に受けているが、かつてのような重い症状に悩まされることはなく、心が安まる相談相手のようだ。
田中さんのこれまでの作家生活は、金山氏と知り合い、0会、そして具体のメンバ-としてデビュ-する20代の華々しい時期と、病気になって具体を辞め、明日香に引き籠もって絵画に打ち込む60年代以降の時期に大別される。この二つの時期にまたがる彼女の一貫した創造性の歴史をどう描くかが鍵だ。
国際的に活動を広げた具体の中で、グル-プの育ての親ともいうべき吉原治良氏と、早熟な才能を開化させた田中敦子氏との競合が、同じく才能豊かな金山明氏の存在とからまって、複雑な感情的対立を生み出し、それがおそらく病気の一因になったと思える。田中敦子氏が女性作家であることから発生するマイノリティ-の物語とはむしろ逆転した地点からはじまっているが、結局病気へと自らを追い込んでしまった原因の中には、日本の女性という社会的な立場も見え隠れしている。
構成は海外の取材が入ったために、第二のヴァ-ジョンでは金山さんのパ-トを絞らざるを得なくなり、第三のヴァ-ジョンになると、登場人物自体の数をかなり制限せざるを得なくなった。最終的に田中さんの発言にアクセントを置くことにしたのは良かったと思う。解説は冒頭に具体をまったく知らない人のために簡単な説明をつけてあるのみで、それ以外は何もなく、できるかぎり物事のありかたをピュア-なかたちで残すことに努めた。
コンセプト
この映像の目的は、田中敦子氏のすばらしい芸術を理解してもらうことと同時に、既存の具体の国際的な評価の基準に対して問題提起をして、新たな読解のパラダイムを提出するところにある。アメリカのアラン・カプロ-は1966年に、『アッセンブリッジ、エンヴァイラメント アンド ハプニングズ』という本を書き、具体のメンバ-のアクションやインタ-メディアの先駆的な役割を評価した。また機関紙『具体』を目にしたフランスの評論家ミシェル・タピエは、具体に大きな関心を抱くことになり、1957年には、今井俊満とジョルジェ・マチュ-を伴って来日、日本に表現抽象主義のアンフォルメル旋風を巻き起こした。タピエを通して具体のメンバ-はアンフォルメルに参加し、多くの作家はタブロ-制作へと戻っていった。
これが一般に知られている具体の理解だが、映像の中で田中氏が語っているように、彼女の場合は初期の具体のアクションなどはあくまで絵の発展形態として考案されており、アンフォルメルを介した絵画への回帰という図式化は当てはまらない。田中氏は舞台で着ている服を次々に脱いで、最後はタイツ姿となるパフォ-マンスを行っているが、生身の身体性はそれを何重にもおおう服の支持体でしかなく、重要なのは変身をもたらす、タブロ-のように変化する服だった。カプロ-は具体のアクションとハプニングだけではなく、環境作品も評価していたが、具体をハプニングのパイオニアとみなした結果、評価が一般に身体的なものへと偏向していったことは否めない。
1994年に開かれたポンピドゥ・センタ-の『境界を超えて』展でも、村上三郎氏の紙やぶりが再現された。このアクションは屏風を神風のように体当たりで破るといった、爽快で破天荒な日本的な面があり、かつ前衛行為の象徴としてだれにもわかりやすい。白髪氏のフット・ペインティングの絵画も、日本人が畳の上を素足で歩くといった習慣や、舞踏のように描くといった身体性とのかかわりにおいて伝統的解釈を可能にする。しかも日本人という土着的以外の何者でもない肉体の表出は、アイデンティティの歴然とした呈示になる。
具体における日本的な要素は、具体美術宣言に明らかなように、物質をありのままの形で呈示するという方向にも現れている。こうした物質への感性は、元永定正氏の水を使った一連の自然主義的な美しいインスタレ-ションや、白髪氏の泥の格闘や丸太と斧、村上氏の紙破りなどの自然の物質の斬新な出現に結晶している。しかし田中・金山氏は60年代のもの派へと通ずるようないわゆる自然物は布以外ほとんど使っていない。日本的といえば、吉原治良氏が60年代以降亡くなるまで、禅画のような円の連作を描いたことも想起してもいい。
こうした傾向に対して、田中・金山氏の作品には対外的にも理解されやすい具体の自然物や身体性を通しての日本的なアイデンティティの表出はほとんど見られない。『田中敦子 もうひとつの具体』のサブタイトルは、とくに海外で評価されている日本的ともいえる具体の要素とは異質な「もうひとつ」の開かれた具体の面を強調するためだ。そしてなによりも、グル-プを越えた個としての作家の軌跡に新たな光が当てられるべきだろう。パリでフランスの友人たちを招いて、『田中敦子 もうひとつの具体』の試写会をした。みんなとても熱心に見てくれた。映像を見た後に何かほのぼのとした喜びが残ると友人が言った。自分で述べるのもおかしいが、この映像の見所は、ユニヴァ-サルな造形言語をめざした彼女のじつに独創的な世界と、その驚異的な創造の軌跡をたどれる醍醐味にある。
写真と記録映像を通して、田中敦子さんの生き生きとした活動とラディカルですばらしい作品と出会えることになったのは、資料提供、撮影協力してくださった芦屋市立美術博物館をはじめとする多くの方々の好意と協力のおかげである。長い撮影につきあってくださった田中さん、金山さん、インタビュ-に快く応じて下さった方々に、撮影や忍耐のいる編集作業を含めて、映像の完成のために最後まで情熱をもち続けてくれた岸本康氏、湯山ななえ氏、スタッフ全員に心から感謝を捧げる。
(1998.10 おかべあおみ)
電気服を着た田中敦子 1956
田中敦子氏と金山明氏
電気服の前の田中敦子 1956
自宅アトリエにて制作中の田中氏
制作記 岸本 康
春頃までに「田中敦子 もうひとつの具体」に使う素材を何とか揃えようとしていたが、最後までオープニングのシーンに苦労していた。キーワードは「大阪」や「ホームからのネオン」などがあったので、主に大阪駅周辺なとでロケハンを繰り返して、何回か撮って見たがどうもしっくり行かない。田中さんの発言に出てくる「大阪駅のホームにあるベンチ」なんていうのも撮ってみたが、何か違う。そう、40年が過ぎた現在、周りの情景はあまりに変わってしまっていて、リアリティーを生み出す要素はそこに無かった。ホームにあるべンチも実は探さねばないくらい、あの広い大阪駅のほとんどのホームにベンチが無い。
そんなある日、夢の中で大きな河の向こうに街の明かりが広がるという様な光景を見た。昔、淀川の花火大会へ行った時の面影がなんとなくあったのかも知れないが、阪急の南方の駅から堤防沿いに歩けばきっとこの光景に出会えるはずだと勝手に思い、ロケハンなしで機材を持って出かけた。堤防に上がると想い描いていた絵コンテと少しの狂いもない風景が現れた。こんなこともあるものなのか・・・。実際には十三寄りへ歩いた所で良いアングルを見つけて三脚をセットして暗くなるのを待った。この日、4月19日は良く晴れていた。前日は雨で阪急電車のポイントの切替装置に落雷があったそうで、京都線の特急電車は運休していた。今日は苦労してここまで来たなと思いながら、日が落ちるのとネオンの光が美しくなるのを見ていた。どっぷりと暗くなる前にようやくいくつかOKテイクが撮れた。
森村展の巡回
そんな事をしながら素材を揃い終えようとしていた頃、森村さんの個展が東京から始まった。彼の活動については横浜までの取り組みをまとめて「女優家の仕事」としたが、その後の活動についても取材している。しかし最近彼はは単なる展示空間だけでは気が済まなくなってきているらしく、パフォーマンスやコンサートなどへ発展してしまっているのは御周知のとおりで、著書のサイン会にも大勢のファンが集まる。追いかける方もだんだんと大変になってくるが、毎回の様に新しい事をやってしまうので、こちらも笑わせられながら前へ進んでいるというのが現状だ。時々、森村さんのファンの方から御電話を頂き、次回のドキュメンタリーはいつ頃ですか、とか早く出して下さいとかいうリクエストも頂戴しているので、なんとかせねばとも考えている。最近知ったが、森村さんはファンクラブを作る計画もある様だ。これも作品なのだろうか・・・。
壮大な空間の東京都現代美術館の展示も美しかったが、京都では作品が大きく迫る様な感じにも見えて楽しめたと思う。そして何よりも、地元関西という事も手伝い、ひとつのイベントであった「河内音頭で美術をKILL」も頭に河内音頭のフレーズをこびり付かせて盛況に終わり、展覧会は丸亀へ移動した。
体によくない
しかし、私はこの他にも美術館や作家との仕事もさせて頂き、8年目に手が届きそうなKYOTO ART TODAYの制作も続けているので、まさに皿回し状態だ。何とか皿の落ちない時間を見て自主制作物の撮影や編集を完結させて行かねばならない。その昔ニューヨークで発刊されていた本家「ART TODAY」もディレクターの体調が悪くなって廃刊になったと聞いているので、なんとかそれは避けたい。しかし、体調の優れない時期が増えつつある。
休みもなく、サッカーのワールドカップなんて当然見ずに試行錯誤を繰り返し、「田中敦子 もうひとつの具体」の編集を何とか終えた。今回の作品ではやはり歴史的な背景の整理のために年号や人物名も多く出てくるのだが、これを一字一句間違いなくテロップにして画面に入れる作業は本当に苦労した。最初から一発で間違いなく入れば良いのだが、きちんと資料から抜き出して制作しているのにも関らずいくつかのミスがあった。やはりテロップの原稿にはログが必要であり、その内容をどこで調べ、何を参考にして作ったかまで記録しておく必要性を痛感した。
制作を振り返る
監督の岡部あおみさんは著書の中でも紹介しているが、彼女はルーブル学院時代にポンピドゥーセンターの研修生で、その特権を生かしてセンターの収蔵しているアート・ドキュメンタリーを実に数多く見ている。そしてその後、センターの主催する国際美術映像ビエンナーレの審査員を経験し、その後、有名な欧米の監督や、その監督に描かれた作家にもインタビューして、その映像がどのような機能を果たしたかを分析をしたりもしている。果してそういう(ちょっと変った)人がどんな映像を作ってみたいと思っているのかは、素朴な疑問であった。
’94年のポンピドゥーのビエンナーレのクロージングパーティーは夜中まで続いていて、日付が変りそうなのに、その頃からまだ上映をするというハードなものだったので、私たちはコーヒーでも飲んで帰る事にし、カフェ・ボブールに向かった。その時に、何か作ってみたい映像は無いのかという質問を岡部さんにし(てしまっ)た。それが田中敦子さんのドキュメンタリー制作の始まりだった様に想う。
’94年の暮れから制作を初めて、’98年夏にようやく出来上がったわけだが、丁度この時期、VTRもアナログからデジタルへの過渡期であり、目まぐるしく機材の入れ替わりがあった。さらに、今回の作品では過去に撮られた8ミリフィルムを借りたり、多くのフォーマットを使っている。
インタビューや制作風景も実に多く長く撮った。たった4年だが、最初の頃と最終の頃では、機材の変化も去ることながら、私自身の撮影技術にも変化があった事は、編集の段になって認識した。また、逆に現在だったら何回も撮っておかないカットが後で有効だった事もあったので、いろいろと考えさせられた。
田中敦子さんの制作風景
田中さんの制作風景は’95年に撮影したもので、動画映像としては初めての収録で、初めての公開になった。明日香の御自宅にあるアトリエに何回となく伺い、撮影させていただいた。田中さんの制作は、実にゆっくりと進む。こんなにゆっくりとしか進まない制作で、よくこれだけ多くの作品を仕上げて来られたものだと感心してしまう。丁寧に丁寧に塗り重ねられてゆくのは絵の具では無く、自動車の塗装用のエナメル系の塗料だ。結構においも凄い。アトリエには予め調合した色を几帳面に缶に分けて、色別に並べてある。また、田中さんのオリジナルである油差しでペイントするための色も整然と並んでいる。その中から考えて考えて色を選び、描いていかれる。
田中さんの作品をよく見ると、その何十にも重ねられた色や線が、時々光線の当たりぐあいで反射して絵の奥に血管が入っている様にも感じられる様な厚みを連想する。このこってりとした線が次第に私を魅了して行った。
しかしゆっくりゆっくりと進む制作風景は、映像として全てを見るのは少し辛いものがある。おそらくテレビ番組などでは、紹介するにも時間がかかりすぎて画になりにくい。かと言って、編集で短くしてしまうと、制作が次々に進んでゆく様な印象に取られても困るので、どの程度の長さで制作場面を見せるのかは大きなポイントで、最後まで岡部さんと意見を戦わせた。実際のところ、500号の大作を約3ヶ月かけて完成されたのだが、なんとなくそんな時間の経過が画面から感じ取っていただく事ができれば幸いである。
今回の映像は、実に多くの方にご協力頂き実現できた。作品や資料を収蔵されている美術館や展覧会を行われていた美術館、あるいは作品を貸し出されていた美術館の方にも撮影の許可書類を作成していただいたり、多大なご協力を得て映像化できている。
また当初より希望的に計画していた海外取材も松下電器産業の助成により実現でき、内容的な厚みと、海外の視点を加えることができた。
そして、何よりもインタビューに快く応じて下さった方々、中には作品の中でご紹介できなかった方もおられるくらい、多くの方に長い時間を頂戴し、お話を伺えた事にも感謝している。
このように田中さんの40年あまりの活動を4年足らずで取材し、45分の映像にまとめたわけだが、実に膨大な人の手とコミニュケーションの中でたまたま成立し完成をみたとも思え、とりあえずはほっとしている。
あのボンピドゥーセンターのビエンナーレから丁度4年目にあたる今年、「田中敦子 もうひとつの具体」が第6回のビエンナーレに参加できる知らせが届いた事は感慨深い出来事だ。
(1998.10 きしもとやすし)
オープニング・タイトル
東京都現代美術館の森村展
熱唱する芸術家M
田中敦子氏 制作風景
作品”ベル”と田中敦子 1955
Biography
Atsuko Tanaka
1932 – 2005
Born in Osaka
1955 – Participating in the association of Gutai Art
One Person Shows
1963 – Minami Gallery, Tokyo
– Gutai Pinacotheca. Osaka
1967 – Bakusuisha Gallery, Osaka
1968 – Akao Gallery. Osaka
1972 – Minami Gallery. Tokyo
– Fujimi Gallery. Osaka
1974 – Gallery Nihonbashi. Osaka.
1975 – Kasahara Gallery. Osaka
1978 – Asahi Gallery. Kyoto
– Imabashi Gallery. Osaka
1980 – Ban Gallery. Osaka.
1982 – Museum of 81, Tokyo
1983 – Gallery Takagi. Nagoya
1985 – Contemporary Art Gallery. Tokyo
– Gallery Takagi, Nagoya
1986 – Gallery Takagi. Nagoya
1987 – Galerie Stadler. Paris
1988 – GalleryT & I. Kyoto
1990 – Eita Museum of Art. Nara
– Gallery Takagi. Nagoya
1992 – Gallery Ruranuki. Osaka
1994 – LADS GALLERY. Osaka
– Gallery Takagi. Nagoya
Group Shows
1954 – “ZERO-KAr. Sogo Department Store. Osaka
– “The 2nd Genbi Exhibition”. Matsuzakaya Department Store, Osaka
1955-65 – The lst to the 15th Gutai Show.
exhibited in all shows as a member of Gutai
1957 – “The World Modern Art Exhibition”. Bridgestone Museum of Art. Tokyo
1958 – “International Art of the New Era”. Osaka
– “Gutai New York”. Martha . Jackson Gallery. New York
1959 – “Arte Nova”. Figurative Gallery. Torino
– “15 Japanese Artists chosen by Tapie”
Bridgestone museum of Art,Tokyo
1960 – “The Osaka International Sky Festival”. Osaka
1961 – “Continuite et Avant-Garde au Japon”
Torino International Art Laboratory,Tokyo
田中敦子 もうひとつの具体
1998年 監督・岡部あおみ
本編 45分
日本語・English Subtitle・French Subtitles
第17回モントリオール国際芸術映画祭参加作品
第6回ポンピドゥーセンター国際芸術映像ビエンナーレ