オープニング・タイトル
春頃までに「田中敦子 もうひとつの具体」に使う素材を何とか揃えようとしていたが、最後までオープニングのシーンに苦労していた。キーワードは「大阪」や「ホームからのネオン」などがあったので、主に大阪駅周辺なとでロケハンを繰り返して、何回か撮って見たがどうもしっくり行かない。田中さんの発言に出てくる「大阪駅のホームにあるベンチ」なんていうのも撮ってみたが、何か違う。そう、40年が過ぎた現在、周りの情景はあまりに変わってしまっていて、リアリティーを生み出す要素はそこに無かった。ホームにあるべンチも実は探さねばないくらい、あの広い大阪駅のほとんどのホームにベンチが無い。
そんなある日、夢の中で大きな河の向こうに街の明かりが広がるという様な光景を見た。昔、淀川の花火大会へ行った時の面影がなんとなくあったのかも知れないが、阪急の南方の駅から堤防沿いに歩けばきっとこの光景に出会えるはずだと勝手に思い、ロケハンなしで機材を持って出かけた。堤防に上がると想い描いていた絵コンテと少しの狂いもない風景が現れた。こんなこともあるものなのか・・・。実際には十三寄りへ歩いた所で良いアングルを見つけて三脚をセットして暗くなるのを待った。この日、4月19日は良く晴れていた。前日は雨で阪急電車のポイントの切替装置に落雷があったそうで、京都線の特急電車は運休していた。今日は苦労してここまで来たなと思いながら、日が落ちるのとネオンの光が美しくなるのを見ていた。どっぷりと暗くなる前にようやくいくつかOKテイクが撮れた。
森村展の巡回
東京都現代美術館の森村展
そんな事をしながら素材を揃い終えようとしていた頃、森村さんの個展が東京から始まった。彼の活動については横浜までの取り組みをまとめて「女優家の仕事」としたが、その後の活動についても取材している。しかし最近彼はは単なる展示空間だけでは気が済まなくなってきているらしく、パフォーマンスやコンサートなどへ発展してしまっているのは御周知のとおりで、著書のサイン会にも大勢のファンが集まる。追いかける方もだんだんと大変になってくるが、毎回の様に新しい事をやってしまうので、こちらも笑わせられながら前へ進んでいるというのが現状だ。時々、森村さんのファンの方から御電話を頂き、次回のドキュメンタリーはいつ頃ですか、とか早く出して下さいとかいうリクエストも頂戴しているので、なんとかせねばとも考えている。最近知ったが、森村さんはファンクラブを作る計画もある様だ。これも作品なのだろうか・・・。
壮大な空間の東京都現代美術館の展示も美しかったが、京都では作品が大きく迫る様な感じにも見えて楽しめたと思う。そして何よりも、地元関西という事も手伝い、ひとつのイベントであった「河内音頭で美術をKILL」も頭に河内音頭のフレーズをこびり付かせて盛況に終わり、展覧会は丸亀へ移動した。
体によくない
熱唱する芸術家M
しかし、私はこの他にも美術館や作家との仕事もさせて頂き、8年目に手が届きそうなKYOTO ART TODAYの制作も続けているので、まさに皿回し状態だ。何とか皿の落ちない時間を見て自主制作物の撮影や編集を完結させて行かねばならない。その昔ニューヨークで発刊されていた本家「ART TODAY」もディレクターの体調が悪くなって廃刊になったと聞いているので、なんとかそれは避けたい。しかし、体調の優れない時期が増えつつある。
休みもなく、サッカーのワールドカップなんて当然見ずに試行錯誤を繰り返し、「田中敦子 もうひとつの具体」の編集を何とか終えた。今回の作品ではやはり歴史的な背景の整理のために年号や人物名も多く出てくるのだが、これを一字一句間違いなくテロップにして画面に入れる作業は本当に苦労した。最初から一発で間違いなく入れば良いのだが、きちんと資料から抜き出して制作しているのにも関らずいくつかのミスがあった。やはりテロップの原稿にはログが必要であり、その内容をどこで調べ、何を参考にして作ったかまで記録しておく必要性を痛感した。
制作を振り返る
田中敦子氏 制作風景
監督の岡部あおみさんは著書の中でも紹介しているが、彼女はルーブル学院時代にポンピドゥーセンターの研修生で、その特権を生かしてセンターの収蔵しているアート・ドキュメンタリーを実に数多く見ている。そしてその後、センターの主催する国際美術映像ビエンナーレの審査員を経験し、その後、有名な欧米の監督や、その監督に描かれた作家にもインタビューして、その映像がどのような機能を果たしたかを分析をしたりもしている。果してそういう(ちょっと変った)人がどんな映像を作ってみたいと思っているのかは、素朴な疑問であった。
'94年のポンピドゥーのビエンナーレのクロージングパーティーは夜中まで続いていて、日付が変りそうなのに、その頃からまだ上映をするというハードなものだったので、私たちはコーヒーでも飲んで帰る事にし、カフェ・ボブールに向かった。その時に、何か作ってみたい映像は無いのかという質問を岡部さんにし(てしまっ)た。それが田中敦子さんのドキュメンタリー制作の始まりだった様に想う。
'94年の暮れから制作を初めて、'98年夏にようやく出来上がったわけだが、丁度この時期、VTRもアナログからデジタルへの過渡期であり、目まぐるしく機材の入れ替わりがあった。さらに、今回の作品では過去に撮られた8ミリフィルムを借りたり、多くのフォーマットを使っている。
インタビューや制作風景も実に多く長く撮った。たった4年だが、最初の頃と最終の頃では、機材の変化も去ることながら、私自身の撮影技術にも変化があった事は、編集の段になって認識した。また、逆に現在だったら何回も撮っておかないカットが後で有効だった事もあったので、いろいろと考えさせられた。
田中敦子さんの制作風景
制作中の田中氏
田中さんの制作風景は'95年に撮影したもので、動画映像としては初めての収録で、初めての公開になった。明日香の御自宅にあるアトリエに何回となく伺い、撮影させていただいた。田中さんの制作は、実にゆっくりと進む。こんなにゆっくりとしか進まない制作で、よくこれだけ多くの作品を仕上げて来られたものだと感心してしまう。丁寧に丁寧に塗り重ねられてゆくのは絵の具では無く、自動車の塗装用のエナメル系の塗料だ。結構においも凄い。アトリエには予め調合した色を几帳面に缶に分けて、色別に並べてある。また、田中さんのオリジナルである油差しでペイントするための色も整然と並んでいる。その中から考えて考えて色を選び、描いていかれる。
田中さんの作品をよく見ると、その何十にも重ねられた色や線が、時々光線の当たりぐあいで反射して絵の奥に血管が入っている様にも感じられる様な厚みを連想する。このこってりとした線が次第に私を魅了して行った。
しかしゆっくりゆっくりと進む制作風景は、映像として全てを見るのは少し辛いものがある。おそらくテレビ番組などでは、紹介するにも時間がかかりすぎて画になりにくい。かと言って、編集で短くしてしまうと、制作が次々に進んでゆく様な印象に取られても困るので、どの程度の長さで制作場面を見せるのかは大きなポイントで、最後まで岡部さんと意見を戦わせた。実際のところ、500号の大作を約3ヶ月かけて完成されたのだが、なんとなくそんな時間の経過が画面から感じ取っていただく事ができれば幸いである。
作品"ベル"と田中敦子 1955
今回の映像は、実に多くの方にご協力頂き実現できた。作品や資料を収蔵されている美術館や展覧会を行われていた美術館、あるいは作品を貸し出されていた美術館の方にも撮影の許可書類を作成していただいたり、多大なご協力を得て映像化できている。
また当初より希望的に計画していた海外取材も松下電器産業の助成により実現でき、内容的な厚みと、海外の視点を加えることができた。
そして、何よりもインタビューに快く応じて下さった方々、中には作品の中でご紹介できなかった方もおられるくらい、多くの方に長い時間を頂戴し、お話を伺えた事にも感謝している。
このように田中さんの40年あまりの活動を4年足らずで取材し、45分の映像にまとめたわけだが、実に膨大な人の手とコミニュケーションの中でたまたま成立し完成をみたとも思え、とりあえずはほっとしている。
あのボンピドゥーセンターのビエンナーレから丁度4年目にあたる今年、「田中敦子 もうひとつの具体」が第6回のビエンナーレに参加できる知らせが届いた事は感慨深い出来事だ。
(1998.10 きしもとやすし)